- あ
- 明智光秀(あけち みつひで)1528ころ-1582
- 浅井長政(あさい ながまさ)1545-1573
- 浅井久政(あさい ひさまさ)?-1573
- 朝倉義景(あさくら よしかげ)1533-1573
- 浅野長勝(あさの ながかつ)?-1568
- 浅野長政(あさの ながまさ)1547-1611
- 足利政知(あしかが まさとも)1435‐1491
- 足利義昭(あしかが よしあき)1537-1596
- 足利義澄(あしかが よしずみ)1480―1511
- 足利義稙(あしかが よしたね)1466‐1523
- 足利義政(あしかが よしまさ)1435-1490
- 安達盛長(あだち もりなが)1135-1200
- 阿野全成(あのぜんじょう)1153?-1203
- 天野康景(あまの やすかげ)1537‐1613
- 安城松平家(あんじょうまつだいらけ)
- 安徳天皇(あんとく てんのう)1178-1185
- い
- 伊賀・伊勢平氏(いが・いせへいし)
- 池田勝正(いけだ かつまさ)?-1578?
- 池禅尼(いけのぜんに)?-?
- 石川数正(いしかわ かずまさ)?-1593
- 磯野員昌(いその かずまさ)?-?
- 一条忠頼(いちじょう ただより)?-1184
- 一条能義(いちじょう よしやす)1147-1197
- 伊東祐親(いとう すけちか)?-1182
- 伊東(藤原)忠清(いとう(ふじわら) ただきよ)?-1185
- 今川氏真(いまがわ うじざね)1538-1615
- 今川氏親(いまがわうじちか)1473-1526
- 今川義元(いまがわよしもと)1519-1560
- 岩津松平家(いわつまつだいらけ)
- う
- 上杉謙信(うえすぎ けんしん)1530-1578
- 宇喜多直家(うきた なおいえ)1529-1581
- 宇佐美実政(うさみ さねまさ)?-1190
- 氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)?-1571
- 鵜殿長照(うどのながてる)?-1562
- 浦上宗景(うらかみ むねかげ)?-?
- え
- お
- 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)
- 大内義信(おおうち よしのぶ)?-?
- 大江広元(おおえ ひろもと)1145-1125
- 正親町天皇(おおぎまちてんのう)1517~1593
- 太田広綱(おおたひろつな 源広綱)?-?
- 大庭氏(おおばし)
- 大庭景親(おおば かげちか)?-1180
- 大庭景能(おおば かげよし)?-1210
- 大姫(おおひめ 源頼朝娘)1178-1197
- 岡崎義美(おかざき よしざね)1112-1200
- 岡部元信(おかべもとのぶ)?-1581
- 於大の方(おだいのかた)1528-1602
- 織田 信興(おだ のぶおき)?-1570
- 織田信雄(おだ のぶかつ)1558-1630
- 織田信清(おだ のぶきよ)?-?
- 織田信孝(おだ のぶたか)1558-1583
- 織田信忠(おだ のぶただ)1557-1582
- 織田信長(おだ のぶなが)1534-1582
- 織田信秀(おだ のぶひで)1511-1551
- 織田信広(おだ のぶひろ)?-1574
- 織田秀成(おだ ひでなり)?-1574
あ
明智光秀(あけち みつひで)1528ころ-1582
日向守。通称十兵衛。のち惟任(これとう)と改名。織田信長に仕え、戦功により近江坂本城主となる。天正十年(1582年)信長を本能寺に襲い自害させたが、11日後、山城山崎で羽柴秀吉と戦って敗れ、小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。
浅井長政(あさい ながまさ)1545-1573
織田信長の妹、お市の方と結婚して信長と同盟を結んだが、その後朝倉義景を支援して、織田信長、徳川家康のぐんと姉川で戦って敗退。のち、信長に小谷城を攻められ、自刃した。淀君の父。

浅井久政(あさい ひさまさ)?-1573
小谷城主で江北を支配。父は亮政(すけまさ),母は側室尼子氏。天文11年(1542年)家督を継ぐ。亮政の死を契機として再挙した京極高広に攻められ,和を結び危機を回避。江南の六角氏との戦いでも終始劣勢であり,軍事的・対外的にふるわなかった。永禄3年(1560年)家督を賢政(長政)に譲り隠退。73年織田信長軍に攻撃されて落城し,8月27日自刃。
朝倉義景(あさくら よしかげ)1533-1573
初めは父祖の代から続く加賀の一向一揆との争いに明け暮れた。1568年義輝が松永久秀に殺されると,義輝の弟義昭は義景を頼って越前に入った。しかし義景に上洛の意図はなく,義昭は織田信長を頼って岐阜へ移った。信長は義昭を奉じて上洛,義景は信長の攻撃を受けることとなった。義景はすでに和を固めていた本願寺勢力や浅井長政らと結び,再三信長と合戦に及んだが,1573年敗れ自刃した。
浅野長勝(あさの ながかつ)?-1568
後妻の七曲(杉原家利の娘)の妹の朝日と杉原定利の間の娘であるねねとややを養女としたが、ややについては前妻の勝福院との間の実子ともいう。
男児がひとりいたが、早世したため、姉婿の安井重継の長男である、甥の弥兵衛(後の浅野長政)をややの婿養子にむかえ家督を継がせた。
長勝は、織田信秀、織田信長に仕えた。弓衆となり、300石扶持。豊臣秀吉の与力とされた。
浅野長政(あさの ながまさ)1547-1611
浅野長勝の養子となり織田信長に仕えて豊臣秀吉に付属され,秀吉の政権獲得後の1583年には京都の奉行となる。そしてこれ以後豊臣氏蔵入地の代官を兼ね,93年(文禄2)甲斐一国を領し,宇都宮国綱,伊達政宗などを与力とした。
1590年小田原征伐では岩槻など後北条氏の支城を攻め,奥羽を検地,92年には肥前名護屋で秀吉の朝鮮渡海を諫止した。そして秀吉の晩年には秀頼擁護のため五奉行の一員となったが,秀吉没後徳川家康と石田三成との政争に際し,三成らに謀られて失脚,武蔵府中に蟄居し,1606年(慶長11)常陸のうちで5万石を与えられた。
長政は姻戚出身の奉行として豊臣氏に信任されたが,その立場は前田利家や徳川家康に近く,石田三成や増田長盛らの集権化を志向する吏僚とは異なっていた。
足利政知(あしかが まさとも)1435‐1491
室町後期の武将。将軍足利義教の子,義政の弟。初め出家して香厳院と称した。
1454年(享徳3)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,関東に内乱(享徳の乱)が生ずるや、関東管領上杉氏は古河公方となった成氏に代わる鎌倉公方の東下を要請した。
そこで,義政の命令で還俗し,幕府から派遣されたのが政知であった。幕府・上杉方の中心であったが,鎌倉に入部しえず伊豆の堀越(ほりごえ)にとどまり<堀越公方と呼ばれた。
足利義昭(あしかが よしあき)1537-1596
室町幕府第15代将軍。在職1568~1573。初め奈良一乗院に入り覚慶と称したが、還俗
して義秋、のち義昭と改めた。織田信長に擁立されて将軍となったが、のち、信長を討とうとして京都を追われ、室町幕府は滅亡した。諸国を流浪した後、大坂で死去。
足利義澄(あしかが よしずみ)1480―1511
室町幕府11代将軍。堀越公方足利政知の子。1491年京都天龍寺塔頭(たっちゅう)香厳院の喝食(かっしき)となり,清晃と称した。
1493年細川政元はクーデターにより将軍足利義稙(よしたね)(義材(よしき))を廃し,清晃を将軍に擁立。清晃は還俗して初め義遐(よしとお),のち義高と改名,1502年以後は義澄を名乗った。
1494年征夷大将軍に就任したが、実験は政元が掌握した。1507年政元が暗殺されると、周防に亡命していた義材が大内氏に擁せられて上洛、義澄は将軍位を剥奪された。
足利義稙(あしかが よしたね)1466‐1523
室町幕府10代将軍。
9代将軍義尚が1489年(延徳1)近江で陣没したとき,義尚の母日野富子らの推挙で次期将軍に嗣立され,美濃より上洛した。
90年大御所義政が没してのち幕府の実権を握り,義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐,河内出陣の軍を起こしたが,これが因で細川政元と対立,1493年(明応2)4月政元のクーデタにより将軍を廃立された。しかし同年越中に逃亡,99年京都奪回を企図したが果たさず周防の大内義興を頼り,1508年(永正5)義興の援助で上洛に成功し,将軍に還任した。
足利義政(あしかが よしまさ)1435-1490
室町幕府8代将軍。在職1449-74*。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。
文安6年将軍職につくが、畠山持国,細川勝元ら宿老中心の政治をきらい遊興にふける。
寛正(かんしよう)5年弟義視(よしみ)を後嗣にさだめたが,妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだた、後継者争いがおこり、応仁の乱に発展。
乱中の文明5年義尚に将軍職をゆずり、のち京都東山にうつって東山殿とよばれる。銀閣寺、水墨画、能楽、生け花などに代表される東山文化をうみだした
安達盛長(あだち もりなが)1135-1200
源頼朝の乳母比企尼の長女を妻としたことから、頼朝に挙兵前から仕える。石橋山の戦い後、頼朝とともに安房に逃れ、千葉常胤を味方に引き入れる。鎌倉入り後上野国の奉行人、のちに三河国の守護を務め、頼朝の死後は出家したが宿老13人の合議制メンバーに名を連ね、梶原景時の断崖には積極的に参加した。
伝安達盛長の墓(静岡県伊豆市修善寺)▶

阿野全成(あのぜんじょう)1153?-1203
源義朝と常盤の長男。幼名今若。頼朝の異母弟、義経の同母兄。
平治の乱(1159)後、醍醐寺で出家して醍醐(悪)禅師全成と称される。治承4(1180)年頼朝の挙兵を聞き直ちに関東に下向、合流。武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野を領し阿野法橋と号する。
北条時政の娘阿波局を娶り、これが千幡(のちの実朝)の乳母になったことから、頼朝没後は、千幡の擁立をはかる北条氏と2代将軍頼家との対立に巻き込まれたものと思われる。
建仁3(1203)年5月、頼家に対する謀反の疑いにより常陸国に配流。翌月下野国で誅殺され、子の頼全も京都で討たれた。
天野康景(あまの やすかげ)1537‐1613
徳川家康の部将。天野遠景の後胤といわれ、祖父遠房の代に家康の祖父松平清康に臣属した三河譜代の家柄である。康景は家康より5歳の年長で、幼少のころから家康に近侍し辛苦をともにした。
三河一向一揆のとき一向宗を改宗して家康方に付く。いわゆる三河三奉行の一人で公平無私な言行から(どちへん(彼是偏)なしの天野三郎兵衛〉の異称がある。晩年、幕領民を殺害した自藩の軽卒を幕府に引き渡すことを拒否し,みずから領知を放棄し蟄居した。
安城松平家(あんじょうまつだいらけ)
三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親から始まる岩津松平家が今川氏の攻撃を受けて衰退すると、2代信光子のうち安祥松平家初代の三男親忠が今川氏の軍勢を破った。
この結果、安城松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。
三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親から始まる岩津松平家が今川氏の攻撃を受けて衰退すると、2代信光子のうち安祥松平家初代の三男親忠が今川氏の軍勢を破った。
この結果、安城松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。
安祥城址▶

安徳天皇(あんとく てんのう)1178-1185
第81代天皇(在位1180-1185)。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘・徳子。
1183年木曽(源)義仲の入京に伴い、平氏(平宗盛)とともに西国に落ちる。
1185年壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると清盛妻・時子(二位尼)に抱かれて入水する。
い
伊賀・伊勢平氏(いが・いせへいし)
平将門を討伐した貞盛の子・維盛が進出して以来、その子孫は伊勢を拠点としました。
また、清盛祖父・正盛が鞆田荘を寄進して以来、伊賀も平氏の重要基盤となります。
伊賀・伊勢の家人は平治の乱後、維盛・資盛に仕えます。維盛が富士川、倶利伽羅峠で敗れたため、宗盛らの主流派とは距離を置くことになり、後白河派の資盛は大叔父の頼盛と都落ちには加わらず、伊賀・伊勢の家人も所領に留まっていました。
(頼盛は頼朝の助命を嘆願した池禅尼の子で、頼朝に厚遇されることになります)
池田勝正(いけだ かつまさ)?-1578?
父池田長正の跡をつぎ、永禄6年(1563年)摂津池田城(大阪府)城主。11年織田信長に攻められて降伏したが、本領を安堵され、摂津三守護のひとりとなる。元亀元年三好長逸(ながゆき)と通じた弟・知正に城を追われた。天正6年死去という。
池禅尼(いけのぜんに)?-?
清盛父・忠盛の後妻となり、家盛、頼盛を生む。忠盛亡き後に出家。
平家の六波羅館の池殿に居住したことから池禅尼と称した。
平治の乱で捕らえられた源頼朝が、死んだ家盛に似ていたことから助命を願い、頼朝は伊豆への配流となった


石川数正(いしかわ かずまさ)?-1593
安土桃山時代の武将で、徳川家康の重臣。のち豊臣政権下の大名。父は康正、母は不明。
1549(天文18)に松平竹千代(家康)が今川氏の人質になったとき、駿府に随従して以来、つねに側近にあった。
1561年(永禄4)の尾張石瀬(いしがせ)合戦では先鋒となるが、この合戦後、織田信長との同盟を斡旋し、家康は今川氏と戦うこととなった。翌年2月には、数正は駿府にあった家康の嫡子信康(のぶやす)と正室築山殿の奪還に成功。1569年には叔父家成にかわり、西三河の旗頭となり、諸将を統括した。
姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の合戦などでも戦功をあげたが、1585年(天正13)に路線論争に敗れて岡崎城を出奔し、豊臣秀吉に臣従した。1590年に小田原攻めの功により、信濃国松本城主8万石に封ぜられ、1592年(文禄1)に没した。






磯野員昌(いその かずまさ)?-?
近江磯野(滋賀県高月町)の国人。浅井長政に属し、永禄4年(1561)佐和山城主となる。元亀元年姉川の戦いに敗れ、佐和山に籠城したが、翌年織田信長軍に降伏。天正元年信長を狙撃して逃亡中の善住坊を捕らえた。6年出奔して高野山で出家したという
一条忠頼(いちじょう ただより)?-1184
武田信義の子で甲斐源氏嫡流。1180年父や安田義定らと共に挙兵。富士川の戦いで源頼朝に合流。
1184年1月の源義仲追討で活脅威となり逆にそのことが頼朝の脅威となり、同年6月幕府御所にて御家人が居並ぶ中誅殺される。
一条能義(いちじょう よしやす)1147-1197
能保は頼朝の同母妹を妻としたと思われる。
頼朝が権勢を得るとともに、その後押しによって官位が昇進。1193年縦二位になる。
北条時政に代わり2代目の京都守護となり、頼朝の京での情報収集役となる。頼朝の口利きで娘を後鳥羽天皇の乳母や関白九条兼実の子・良経の妻とし、自らは後白河法皇、後鳥羽天皇に近づき京での地位を高めた。
能保死亡の翌年嫡子・高能も死去し、また頼朝の死を契機として能保系の勢力は宮廷を追われた。
伊東祐親(いとう すけちか)?-1182
所領の伊東荘の分割を巡り工藤佑経と争い、子の河津三郎祐泰を殺害される。祐泰の子が曽我兄弟。
伊豆に流されていた源頼朝と娘が恋愛関係になり、子を出産したことから頼朝を殺害しようとするが失敗。石橋山の戦いでは頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕まる。女婿の三浦義澄に預けられ、罪を許されるが、自らの行いを恥じて自害する。



伊東(藤原)忠清(いとう(ふじわら) ただきよ)?-1185
伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ、保元の乱に参戦。治承3(1179)年政変後には従五位下上総介に任ぜられた。また坂東8カ国の侍を奉行したとされ、翌年の源頼朝挙兵の際、大庭景近に指示を下している。
富士川の戦には副将として参戦,平氏の不利を察知して総大将の平維盛に退却を勧めた。平清盛の死後出家、平氏都落ちには同道せず京に留まったが、元暦1(1184)年、平田家継らの蜂起に参加、翌年志摩で捕らえられ京で斬首された。一族と共に平氏軍制の中核を占めた家人であった。
今川氏真(いまがわ うじざね)1538-1615
戦国時代の武将。
天文7年生まれ。永禄3年父今川義元の敗死で家督をつぐ。
7年ほどで領国の駿河・遠江、三河を徳川家康、武田信玄にうばわれる。のち家康の援助をうけて生涯をすごす。
和歌,蹴鞠をよくした。慶長19年12月28日死去。77歳。子孫は高家として幕府につかえた。
今川氏親(いまがわうじちか)1473-1526
戦国期の駿河国の武将。戦国大名今川氏の初代。
1476年(文明8)父義忠の戦死後,家督をめぐり家中に内紛がおきたが,伯父伊勢新九郎(北条早雲)に擁立され家督を相続。
明応・文亀・永正年間に遠江を侵略し,三河にも触手をのばした。1517年(永正14)に斯波氏を駆逐し,遠江を完全に制圧。この前後から守護大名からの脱皮をみせ,26年(大永6)には分国法「今川仮名目録」を制定。
今川義元(いまがわよしもと)1519-1560
戦国期の東海地方の武将。駿河・遠江・三河にわたる領国を築いた。
1536年(天文5)兄遍照光院恵探(えたん)を倒して家督となり(花倉の乱)、翌年武田信虎の女婿となった。その直後北条氏綱に駿河を侵されたが(河東一乱)、45年攻勢に転じ、北条勢をおし返した。一方三河では松平氏とともに織田信秀と争い、42・48年の2度小豆坂で戦った。
54年北条氏康・武田信玄と同盟を結び(善徳寺の会盟),織田氏との抗争に専念する態勢をつくったが、60年(永禄3)尾張国桶狭間で織田信長に急襲されて敗死。
内政面では徹底した検地とそれにもとづく兵力増強を行い,商工業の振興・統制など富国強兵を推進。53年には仮名目録追加を制定し,その一節「自分の力量を以て国の法度を申付」は,戦国大名を象徴する言葉として有名。



岩津松平家(いわつまつだいらけ)
三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津宗家攻撃を受けて衰退し、庶流の安城松平家が三河各地を略取し惣領化した。
その後、安城家の庶流である三木松平家の信孝によって岩津領は押領されたという。
岩津城址▶

う
上杉謙信(うえすぎ けんしん)1530-1578
享禄3年1月21日生まれ。長尾為景の子。天文17年兄長尾晴景の跡をつぎ越後守護代、春日山城主。
守護上杉定実の死後同国を支配。のち越中・加賀・能登までを勢力範囲とする。信濃、関東で武田信玄や北条氏康とあらそう。信玄との川中島の戦いは有名。
永禄4年上杉憲政より上杉の姓と関東管領職をゆずられる。関東への出陣直前の天正6年3月13日急死した。49歳。幼名は虎千代。名は景虎,政虎,輝虎。
宇喜多直家(うきた なおいえ)1529-1581
はじめ備前守護代浦上氏の家臣。備前西部の雄族松田氏を滅ぼし、毛利氏と結んで、備前三村氏、美作三浦氏を討ち、浦上氏を滅ぼして備前、備中、美作に勢力を及ぼしたが,織田信長麾下(きか)の豊臣秀吉の中国進攻にともない秀吉に通じ毛利氏と交戦。岡山に城下町を建設した。死後、翌年まで喪を秘す。
宇佐美実政(うさみ さねまさ)?-1190
鎌倉初期の武士。伊豆国大見荘の住人。大見平次と称す。
治承4(1180)年の石橋山の戦では源頼朝に属し敗走。奥州合戦では、藤原泰衡の郎従由利惟平を捕縛し,武功を立てたが、建久1(1190)年に泰衡の郎党大河兼任が反旗を翻した際に、これと戦い戦死した。
氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)?-1571
土岐氏、その滅亡後は斎藤氏につかえ、美濃大垣牛屋城主となる。安藤守就(もりなり)、稲葉一鉄とともに美濃三人衆とよばれ、ふたりとともに斎藤龍興にそむき、織田信長にしたがう。伊勢長島の一向一揆との戦いで、元亀2年5月12日戦死した。
鵜殿長照(うどのながてる)?-1562
今川氏真の家臣で,父(長持)の死後、三河(愛知県)上之郷城主となる。
今川義元の妹が生母ということで義元の甥にあたる長照も今川氏の親戚として重用された。
桶狭間の戦い以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれる。
永禄5年(1562)松平勢は家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃。家康は甲賀衆に火計を用いさせたため、その混乱に乗じて城は攻め落とされ、長照は伴与七郎に討ち取られた。長照の二子・氏長・氏次は捕らえられ、駿府に留められていた家康の妻子と交換する形で今川氏方へと送られた。上ノ郷領は久松俊勝に与えられた。


浦上宗景(うらかみ むねかげ)?-?
父村宗の死後、兄政宗をしのぎ、備前和気郡天神山に拠り、備前・美作を支配した。天文~元亀年間(1532-73)、尼子氏次いで毛利氏と美作・備中を舞台に覇を競った。その間,備前西半を中心に重臣宇喜多直家の勢力が伸張するに及び、天正元年(1573年)足利義昭追放後の織田信長に款を通じ、播備作3国安堵の朱印を得た。その結果,宇喜多氏の離反を招き、翌年毛利氏と結だ直家と対立、77年天神山城を攻略され、没落した。
え
お
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)
平安後期,奥州の豪族。
前九年の役(1051〜62)に安倍氏に味方して敗死した亘理経清 (わたりつねきよ) の子清衡は、母の再嫁した清原氏に養われていたが、後三年の役(’83〜87)に源義家と結んで独立し、平泉に館を構えて奥羽両国に勢力をふるった。以後基衡・秀衡の3代に全盛をきわめ,京文化を吸収移植し、中尊寺・毛越 寺などを残した。秀衡は源平の争乱(治承・寿永の乱)に中立を保ち,源義経を保護して終世変わらなかったが、4代泰衡 は源頼朝の圧迫に屈して義経を討ち,その後、頼朝に滅ぼされた(1189)。






大内義信(おおうち よしのぶ)?-?
平治の乱を戦い、敗北後も源義朝に従った。1184年源頼朝の推挙により武蔵守となり、同国守護の役割も果たす。
頼家の乳母の夫であり、実朝元服時には加冠の役を務めるなど、御家人の中で高い地位にあった。
大江広元(おおえ ひろもと)1145-1125
下級貴族であったが朝廷実務を経験し、平家都落ち後まもなく鎌倉に下ったと思われる。
公文所別当および政所別当に取り立てられた。また、御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務めたほか、守護・地頭の設置を進言し、頼朝の信頼を高めた。
(源義経の「腰越状」も大江広元宛である)
頼朝の死後は、御家人同士の争いが起きたが一貫して北条義時を支える立場をとり、義時を支えた。承久の乱に際しては、積極的な京攻めを主張して、幕府の勝利に貢献した。
大江広元の墓▶

正親町天皇(おおぎまちてんのう)1517~1593
第106代天皇。後奈良天皇の第2皇子。名は方仁(しげひ)。弘治三年(1557)践祚(せんそ)、3年後に毛利元就の献上金で即位の礼を行なう。また、織田信長、豊臣秀吉に働きかけて、窮乏状態にあった皇室の回復につとめた。在位30年。
太田広綱(おおたひろつな 源広綱)?-?
源頼朝挙兵時から平家追討軍に加わる。
1184年一の谷の褒賞として頼朝の推挙によって縦五位下駿河守に叙任される。
1190年頼朝の上洛に随行するが、頼朝が関東に下向する朝に突然逃走した。頼朝の右大臣拝賀の供奉人に選ばれなかったこと、駿河国の国務に希望がかなえられなかったことが理由と言われる。
子孫は太田氏として繁栄し、戦国時代初期には太田道灌を輩出している。
大庭氏(おおばし)
関東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族。相模大庭御厨一帯を支配した。一族に梶原氏、俣野氏、懐島氏、豊田氏、桐原氏などがいる。
※坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。一般的には千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が多く挙げられる。
大庭景親(おおば かげちか)?-1180
代々相模国大庭御厨の荘司。
保元の乱は兄とともに源義朝に従いますが、兄との不仲や一時囚人となった際に平家の計らいで助命されたことから、平治の乱では平家に属します。
頼朝挙兵の第一報は景親から清盛に伝わる。石橋山の戦いで頼朝を破るが、富士川の戦いでは平家軍と合流しようとしたが阻まれて、降参する。固瀬川で斬首される。
大庭景能(おおば かげよし)?-1210
保元の乱に弟・景親と源義朝に従い、白河殿の戦いで源為朝の矢で負傷する。
源頼朝の挙兵に参加し、富士川の戦いで降伏した弟・景親を斬った。
奥州藤原氏の追討に朝廷からの許可が得られなかった際に、故事を参考に頼朝に決断をすすめた。
一時鎌倉を追放されたが、許されて頼朝の上洛に供奉。相模の懐嶋で亡くなる。
大姫(おおひめ 源頼朝娘)1178-1197
頼朝との対立を疑われた木曽(源)義仲が人質として鎌倉に送った嫡男・義高の許嫁となる。
義仲滅亡の際に義高も殺害され、そのことで大姫は心を病みます。
その後、後鳥羽延納への入内も計画されましたが、実現せずに20歳の若さで亡くなります。
岡崎義美(おかざき よしざね)1112-1200
相模大住郡岡崎郷の住人。三浦義明の弟。
源頼朝の挙兵に参加し、石橋山の戦いで長子義忠(与一)を討った長尾定景の処分を任せれたが、頼朝に助命を申し出て許された。
頼朝のもとで宿老として重用された。出家後は窮迫し、北条政子が源頼家に所領を義実に与えるように取りなした。89歳の長寿を全う。
岡部元信(おかべもとのぶ)?-1581
今川義元・氏真に仕え、桶狭間の戦い際は鳴海城で織田勢にに抵抗した。
のち武田信玄・勝頼に仕え、長篠・設楽原の戦い後に徳川家康が遠江国小山城に侵攻した際は撃退した。最後は徳川家康との遠江国高天神城における防衛戦にて奮闘するも戦死した。



於大の方(おだいのかた)1528-1602
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正で、徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。
水野忠政は、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)、松平広忠に於大を嫁がせた。天文11年12月26日(1543年1月32日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した。
天文12年7月12日、父・忠政が死去。家督を継いだ兄・信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に属した。これにより、同年9月、於代は広忠により離縁された。於大は、実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。
天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。
永禄5年(1562年)、上ノ郷城合戦の功により、夫・俊勝が同城を与えられた。同城には、子・康元が入り、俊勝と於大は岡崎城に居住した。
天正3年12月(1576年1月)、兄・水野信元が、謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。
於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した。慶長7年8月29日、家康の滞在する伏見城(現・京都府京都市伏見区)で死去。75歳。遺骨は、翌年、江戸講師河の傳通院に埋葬された。



織田 信興(おだ のぶおき)?-1570
織田信秀の7男で織田信長の弟。
元亀元年(1570年)11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により籠城していたため、援軍を送ることができなかった。信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興は天守(別伝には城外に撃って出た、とも)で自害した、と伝わる
織田信雄(おだ のぶかつ)1558-1630
信長の次男。幼名は茶箋丸または三介,入道して常真。永禄 12 (1569) 年,伊勢国司北畠具教の養子となり,名を具豊,のち信意,さらに信雄と改めた。天正3 (1575) 年,伊勢国司となり,本能寺の変後,清洲会議において弟信孝とともに兄信忠の遺児秀信 (幼名三法師) の後見として清洲を居城とし 100万石を領した。同 11年,信孝を岐阜に攻めて自刃させ,翌年徳川家康と結び,豊臣秀吉と対立し,小牧,長久手に対陣 (小牧・長久手の戦い ) 。その後,和して秀吉のもとに服した。同 15年正二位内大臣となったが,同 18年除封され,のち家康の仲介により許され秀吉の御伽衆になった。豊臣氏滅亡後,関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため,領地を失ったが,元和1 (1615) 年家康から大和国宇陀郡5万石を与えられた。なお信雄の系統は江戸時代を通じて存続した。
織田信清(おだ のぶきよ)?-?
織田信康の子。妻は織田信長の妹。尾張犬山城主。永禄元年(1558)信長とともに岩倉城の織田信安を攻める。のち信長と対立、永禄7年犬山城を追われて甲斐(山梨県)にのがれ、出家して犬山鉄斎と称した。
織田信孝(おだ のぶたか)1558-1583
信長の三男、信雄の異母弟。1571年(元亀2)北伊勢の神戸具盛(かんべとももり)を織田氏が征服したのち養子として入り、神戸信孝ともいう。伊勢長島、越前の一向一揆との戦闘、雑賀攻め、荒木村重の有岡城攻略などに従軍、82年(天正10)四国攻めの総大将として摂津にあるとき本能寺の変となる。山崎合戦では羽柴(豊臣)秀吉と連合して明智光秀を討つ。清洲会議では継嗣(けいし)を望んで次兄信雄と争ったが、秀吉に退けられ、長兄信忠の遺領美濃を得て岐阜城主となる。柴田勝家と連合して秀吉に対抗、岐阜城を囲まれ降伏、83年再挙、柴田滅亡により城を出て、尾張知多郡内海(愛知県南知多町)に移り、野間(美浜町)大御堂寺(おおみどうじ)で自尽する。
織田信忠(おだ のぶただ)1557-1582
信長の嫡子。幼名奇妙、菅九郎を名のる。1572年(元亀3)北近江に初陣して浅井長政を攻め、74年の長島一向一揆攻め、75年の長篠の戦いに従軍。出羽介、秋田城介に任ぜられた。75年11月には信長より家督を譲られ、尾張、美濃を領し岐阜城主となる。77年雑賀衆を討ち、また松永久秀討伐により従三位左近衛権中将。播磨攻め、石山合戦、有岡城攻めに参陣。82年甲斐の武田勝頼を攻め先鋒として功があった。さらに中国毛利攻めのため上洛し、妙覚寺に寄宿中、本能寺の変にあい、二条御所にこもって明智光秀軍と戦い、自刃する。
織田信長(おだ のぶなが)1534-1582
天文3年(1534)生まれ。織田信秀の子。
永禄2年(1559)尾張(愛知県)を統一。3年桶狭間の戦いで今川義元を破る。徳川家康と同盟し,10年美濃を征服して岐阜を拠点とする。11年足利義昭を擁立して京都にはいるが、
のち対立。天正元年(1573)義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江に安土城をきずく。天下統一を目前にして、明智光秀の謀反にあい、天正10年6月2日京都本能寺で自刃した。
49歳。尾張出身。幼名は吉法師、三郎。官名は上総介(かずさのすけ)。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)









織田信秀(おだ のぶひで)1511-1551
清洲の尾張守護代織田大和守家の庶流で、三奉行の一人。初め弾正忠、のち備後守。信定の子で、信長の父。
勝幡城を居城とし、次第に勢力を広げ織田一族中最強となった。今川義元や斎藤道三とも戦ったが道三とは和約し、信長に道三の娘(濃姫)をめとらせた。
天文20年3月3日死去。41歳。没年には天文18年、21年説もある。
織田信広(おだ のぶひろ)?-1574
織田信秀の子。織田信長の異母兄。三河安祥城の守将であったが、天文18年今川軍に敗れて捕虜となり、人質の松平竹千代(徳川家康)と交換される。一時信長とあらそったがゆるされ、京都で室町幕府との連絡役をつとめる。天正2年9月29日長島一向一揆鎮圧の際、討ち死にした。
織田秀成(おだ ひでなり)?-1574
織田信秀の八男(または九男)で、織田信長の弟にあたる。津田姓を名乗り、津田 信成(つだ のぶなり)ともいわれる。
兄の信長に早くから従って各地を転戦した。長島一向一揆以外の詳しい事績は不明。
天正2年(1574年)7月の伊勢長島攻めにおいては信長の嫡男・信忠の供衆として従軍した。9月29日、一揆勢による捨て身の反撃を受け、戦死した。秀成を討ったのは、一揆勢の鉄砲隊の者といわれる。年齢に関してはかなり若かったと推測される。
